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第五話 言い争うだけじゃ、何も変わらない

last update publish date: 2026-10-15 17:30:35

「これ、俺も一緒に潰していいか?」

 巧の声が、静かに耳に届いた。

 ——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃないよね、それ。

 けれど、そんなツッコミすら、うまく声にならなかった。

 数千件の罵倒コメントを前に、指先が震えている。

「……巧」

「大丈夫。俺がついてる」

 肩に置かれた手のひらの温度が、やけにはっきり伝わってくる。

 ——おかしいな。前世の私なら、とっくに心が折れてる場面なのに。

 震えていた指が、少しずつ、力を取り戻していく。

「……ありがとう。でも」

 私は顔を上げた。

「これは、私がやる」

 巧が、少しだけ目を見開いた。

「一人でか?」

「一人でいい。——ううん」

 言い直す。

「一人がいい。この人たちに、思い知らせるのは、私の役目だから」

 しばらく私を見つめたあと、巧はふっと小さく笑った。

「……そういうところ、嫌いじゃない」

 ——なにその言い方。記憶喪失設定、どこ行った。

 けれど今は、それを追及している場合じゃない。

 私はスマートフォンを握り直し、司法書士の嘉納さんに連絡を入れた。

「嘉納さん。世間対応は私がやります。相続手続きは、そのまま進めてください」

 通話を切ったあと、新しいアカウントを作成する。

 アカウント名——「越前有希」。本名。顔出しなし。けれど、逃げも隠れもしない宣言。

 投稿ボタンを、迷いなく押した。

【三日後、私の潔白を証明する証拠を、すべて公開します】

 続けて、もう一文。

【養父母、橘家、そして桜へ】

【逃げも隠れもしません。受けて立ちます】

 ——宣戦布告、完了。

 震える手でスマートフォンを置くと、正面に座っていた巧が、じっとこちらを見ていた。

「……有希、すごいな」

「何が」

「あれだけ叩かれて、まだ前を向けるんだな」

 ——なんか、その言い方、記憶喪失の人にしては妙にしっくりきてる気がするんだけど。

 私は思わず、彼の顔をまじまじと見つめた。

「……もしかして、記憶戻った?」

「え? いや……」

 巧は一瞬固まったあと、真顔でこう続けた。

「俺もSNSで言い返してやろうか」

 ——は。

 思わず、噴き出した。

「あなたアカウント持ってないでしょ」

「……そうだった」

 ——このやり取り、絶対記憶喪失関係なくない?

 けれど、なんだかおかしくて。私は笑いながら、ふと本音を漏らした。

「言い争うだけじゃ、何も変わらないでしょ。やるなら、徹底的にやらないと」

 巧が、こちらをじっと見つめてくる。

 その目に浮かんでいたのは——さっきまでの「怯えた男」の光じゃなかった。

 ——な、何。そんなに見ないでよ。

 私は誤魔化すように、話題を変えた。

 それから、巧は家事を積極的に引き受けるようになった。

「これ、有希の分」

 差し出された朝食を見て、私は目を丸くした。

 私の好きな味付け。苦手な食材は、しれっと除かれている。

 ——待って。まだ出会って二日だよ? なんで把握してるの?

「……なんで、私の好み知ってるの」

「……分かる、から……」

 またあの怯えた顔。だけど、絶対おかしい。

 ——これは、ちゃんと確かめる必要がある。

 私は決意し、巧を連れて外に出た。

 向かった先は、近所のユニクロ。

「ここは……?」

「服屋。あなたの服、それしかないでしょ」

 普段オーダーメイドの高級服しか着ていないはずの男が、店内に足を踏み入れた瞬間、あからさまに落ち着かなくなった。

——ほら、出た。

「どうしたの?」

 私が尋ねると、巧は視線を泳がせながら、絞り出すように答えた。

「……こんなにいい服、着たことない、から……」

 ——「こんなにいい服」って、ユニクロに対する感想としてはだいぶズレてるからね?

 にやけそうになる口元を抑えていたその時。

「——有希?」

 聞き覚えのある声に、私の背筋が凍った。

 振り返ると、そこに立っていたのは——宏一。

「久しぶりだね」

「……」

「桜に恥をかかせて、SNSまで炎上させて。楽しかった?」

 ——はいはい、来た来た。いつもの被害者ムーブ返し。

「今からでも、SNSで素直に謝れば、一生俺が面倒見てやる」

 ——面倒見てもらう必要、皆無なんですけど。

 私は表情を変えずに、スマートフォンを取り出した。

「その台詞、あなたが言う資格あるの?」

 画面には、桜と恒一が旅館に出入りする写真。

 日付も、時刻も、はっきり写っている。

 宏一の顔から、一瞬で血の気が引いた。

「な、なんで、それを——」

 慌ててスマートフォンを奪おうと伸ばされた手を、巧が素早く遮った。

 そのまま私の肩を抱き寄せ、宏一の前に立ちはだかる。

 巧の体温が、いつもよりずっと近くにあった。

 ——な、なに。急に。

 抱き寄せられた肩から伝わる力の強さに、心臓が一つ、大きく跳ねる。

 ——ちょっと待って。今、そんなことでドキドキしてる場合じゃないでしょ、私。

 そう自分に言い聞かせているのに、頬の熱は一向に引かなかった。

 宏一は、目の前に立ちはだかった巧の体格と、こちらを見下ろす視線に、一瞬——本当に一瞬だけ、たじろいだように肩を引いた。

 ——今、ちょっと怯んだ。

 けれど、それも一瞬のこと。

 宏一はすぐに我を取り戻すと、鼻で笑うように口の端を歪めた。

「……貧乏人が、吠えただけで何になる」

 見下すような視線が、巧の全身を上から下まで嘗めるように動く。

「有希、お前もお目が高いね。行き倒れの男を拾って、ペットにするなんて」

 ——うわ、こういうところ、前世から変わってないな、この人。

 宏一のこの手の嘲りには、もう慣れきっている。腹も立たない。

 けれど、巧は違った。

 さっき私が買ったばかりのユニクロの服を着たまま、巧は静かに——けれど、地の底から響くような声で言い放った。

「有希は俺が守る」

 一拍。

「俺の、妻だから」

 その一言に、宏一の嘲笑が、ぴたりと止まった。

 ——今の、なに。

 心臓が、また一つ跳ねる。

 さっきの「守る」という一言だけで、こんなに簡単に胸が締めつけられるなんて、思ってもいなかった。

 ——ちょっと、反則でしょ、その言い方。

 宏一は苦々しい顔で私たちを睨みつけたあと、忌々しげに舌打ちを一つ残して、その場を後にした。

 その後ろ姿が見えなくなるまで、私はしばらく、巧の腕の中から動けなかった。

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  • 「浮気女」にされた私が拾った「貧乏男」は、過保護な億万長者でした ~私を売った家族よ、跪いて許しを乞うても手遅れです~   第十四話「もう、縁は切ったはずでしょう」

     「そ、そんなの……何かの間違いよ!」 桜が、震える声を絞り出す。「有希お姉ちゃんが、私を陥れようとしてるだけ! データなんて、いくらでも捏造できるじゃない!」 ——出た、いつもの被害者ムーブ。 その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何か冷たいものがすとんと落ち着いた。 ——分かってた。この子は、絶対にこう来る。 前世でも、何度も見てきた光景だった。都合が悪くなると、事実そのものを「相手の陰謀」にすり替える。そして、それを信じ込ませるだけの愛らしさと涙を、桜は誰よりも持っている。 ——けど、今日は、それが通用しない場所にいる。 配信のコメント欄は、真っ二つに割れていた。【日付、明らかに古いのばっかりだけど】【いや捏造でしょ。桜ちゃんを陥れたいだけ】【さっきの演奏と同じ旋律、確かにあったよな】【桜ちゃんを信じる。あんなに優しそうなのに】【どっちが本当なんだよ】 一つ一つのコメントが流れていくのを見ながら、私は不思議な感覚に包まれていた。 ——前世では、疑ってくれる声なんて、一つもなかった。 世間は、常に強い方、目立つ方、可哀想に見える方の味方をする。前世の私は、その構図の中で、いつも「加害者」の役割を押しつけられてきた。 ——それが今、少しずつ、揺らぎ始めている。 けれど、揺らいだだけで、まだ覆ってはいない。 会場のざわめきが、「疑惑」の色を帯びていく。 そんな中、悲鳴のような声が響いた。「桜! 何があったの!?」 血相を変えて駆けつけてきたのは、養母だった。その後ろには、苦々しい顔をした養父の姿もある。 ——ここで来るんだ、この人たち。 二人の顔を見た瞬間、胸の奥に、じわりと重たいものが広がった。 &md

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