LOGIN「これ、俺も一緒に潰していいか?」
巧の声が、静かに耳に届いた。
——今、記憶喪失の人が言う台詞じゃないよね、それ。
けれど、そんなツッコミすら、うまく声にならなかった。
数千件の罵倒コメントを前に、指先が震えている。
「……巧」
「大丈夫。俺がついてる」
肩に置かれた手のひらの温度が、やけにはっきり伝わってくる。
——おかしいな。前世の私なら、とっくに心が折れてる場面なのに。
震えていた指が、少しずつ、力を取り戻していく。
「……ありがとう。でも」
私は顔を上げた。
「これは、私がやる」
巧が、少しだけ目を見開いた。
「一人でか?」
「一人でいい。——ううん」
言い直す。
「一人がいい。この人たちに、思い知らせるのは、私の役目だから」
しばらく私を見つめたあと、巧はふっと小さく笑った。
「……そういうところ、嫌いじゃない」
——なにその言い方。記憶喪失設定、どこ行った。
けれど今は、それを追及している場合じゃない。
私はスマートフォンを握り直し、司法書士の嘉納さんに連絡を入れた。
「嘉納さん。世間対応は私がやります。相続手続きは、そのまま進めてください」
通話を切ったあと、新しいアカウントを作成する。
アカウント名——「越前有希」。本名。顔出しなし。けれど、逃げも隠れもしない宣言。
投稿ボタンを、迷いなく押した。
【三日後、私の潔白を証明する証拠を、すべて公開します】
続けて、もう一文。
【養父母、橘家、そして桜へ】
【逃げも隠れもしません。受けて立ちます】
——宣戦布告、完了。
震える手でスマートフォンを置くと、正面に座っていた巧が、じっとこちらを見ていた。
「……有希、すごいな」
「何が」
「あれだけ叩かれて、まだ前を向けるんだな」
——なんか、その言い方、記憶喪失の人にしては妙にしっくりきてる気がするんだけど。
私は思わず、彼の顔をまじまじと見つめた。
「……もしかして、記憶戻った?」
「え? いや……」
巧は一瞬固まったあと、真顔でこう続けた。
「俺もSNSで言い返してやろうか」
——は。
思わず、噴き出した。
「あなたアカウント持ってないでしょ」
「……そうだった」
——このやり取り、絶対記憶喪失関係なくない?
けれど、なんだかおかしくて。私は笑いながら、ふと本音を漏らした。
「言い争うだけじゃ、何も変わらないでしょ。やるなら、徹底的にやらないと」
巧が、こちらをじっと見つめてくる。
その目に浮かんでいたのは——さっきまでの「怯えた男」の光じゃなかった。
——な、何。そんなに見ないでよ。
私は誤魔化すように、話題を変えた。
それから、巧は家事を積極的に引き受けるようになった。
「これ、有希の分」
差し出された朝食を見て、私は目を丸くした。
私の好きな味付け。苦手な食材は、しれっと除かれている。
——待って。まだ出会って二日だよ? なんで把握してるの?
「……なんで、私の好み知ってるの」
「……分かる、から……」
またあの怯えた顔。だけど、絶対おかしい。
——これは、ちゃんと確かめる必要がある。
私は決意し、巧を連れて外に出た。
向かった先は、近所のユニクロ。
「ここは……?」
「服屋。あなたの服、それしかないでしょ」
普段オーダーメイドの高級服しか着ていないはずの男が、店内に足を踏み入れた瞬間、あからさまに落ち着かなくなった。
——ほら、出た。「どうしたの?」
私が尋ねると、巧は視線を泳がせながら、絞り出すように答えた。
「……こんなにいい服、着たことない、から……」
——「こんなにいい服」って、ユニクロに対する感想としてはだいぶズレてるからね?
にやけそうになる口元を抑えていたその時。
「——有希?」
聞き覚えのある声に、私の背筋が凍った。
振り返ると、そこに立っていたのは——宏一。
「久しぶりだね」
「……」
「桜に恥をかかせて、SNSまで炎上させて。楽しかった?」
——はいはい、来た来た。いつもの被害者ムーブ返し。
「今からでも、SNSで素直に謝れば、一生俺が面倒見てやる」
——面倒見てもらう必要、皆無なんですけど。
私は表情を変えずに、スマートフォンを取り出した。
「その台詞、あなたが言う資格あるの?」
画面には、桜と恒一が旅館に出入りする写真。
日付も、時刻も、はっきり写っている。
宏一の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「な、なんで、それを——」
慌ててスマートフォンを奪おうと伸ばされた手を、巧が素早く遮った。
そのまま私の肩を抱き寄せ、宏一の前に立ちはだかる。
巧の体温が、いつもよりずっと近くにあった。
——な、なに。急に。
抱き寄せられた肩から伝わる力の強さに、心臓が一つ、大きく跳ねる。
——ちょっと待って。今、そんなことでドキドキしてる場合じゃないでしょ、私。
そう自分に言い聞かせているのに、頬の熱は一向に引かなかった。
宏一は、目の前に立ちはだかった巧の体格と、こちらを見下ろす視線に、一瞬——本当に一瞬だけ、たじろいだように肩を引いた。
——今、ちょっと怯んだ。
けれど、それも一瞬のこと。
宏一はすぐに我を取り戻すと、鼻で笑うように口の端を歪めた。
「……貧乏人が、吠えただけで何になる」
見下すような視線が、巧の全身を上から下まで嘗めるように動く。
「有希、お前もお目が高いね。行き倒れの男を拾って、ペットにするなんて」
——うわ、こういうところ、前世から変わってないな、この人。
宏一のこの手の嘲りには、もう慣れきっている。腹も立たない。
けれど、巧は違った。
さっき私が買ったばかりのユニクロの服を着たまま、巧は静かに——けれど、地の底から響くような声で言い放った。
「有希は俺が守る」
一拍。
「俺の、妻だから」
その一言に、宏一の嘲笑が、ぴたりと止まった。
——今の、なに。
心臓が、また一つ跳ねる。
さっきの「守る」という一言だけで、こんなに簡単に胸が締めつけられるなんて、思ってもいなかった。
——ちょっと、反則でしょ、その言い方。
宏一は苦々しい顔で私たちを睨みつけたあと、忌々しげに舌打ちを一つ残して、その場を後にした。
その後ろ姿が見えなくなるまで、私はしばらく、巧の腕の中から動けなかった。
「聞きたいこと、ですか?」「うん」 真琴は、窓の外に目を向けたまま、静かに続けた。「今日提示してた証拠、随分と用意周到だったね。桜さんと宏一さんが旅館に出入りしてる写真とか、養父さんの会社の資金の流れとか」 ——あ。 心臓が、小さく跳ねた。 ——桜と宏一の写真は、確かにフォルダに入れていた。でも。「資金の流れの件は、今日の会場では、一言も話していません」 声が、自分でも驚くほど、低くなった。「……なんで、それを知ってるんですか?」 真琴は、私の反応を見て、ふっと笑った。「巧から、少し聞いてたから」「巧は、あの証拠の中身を、全部は知りません」「そう?」 真琴は、それ以上深く追及されるのを避けるように、軽く肩をすくめた。 ——今の、はぐらかされた。 私は、じっと真琴の横顔を見つめた。 車内の薄暗い光の中で、彼の表情は、よく読み取れない。 頭の中で、バラバラだった断片が、少しずつ繋がり始めていた。 ——養父の資金洗浄の証拠。桜と宏一の旅館の監視映像。どちらも、私が自分では絶対に手に入れられなかったもの。 それを送ってきたのは、差出人「W」。 前世でも、今世でも。孤立した私を庇い、証拠を送ってくれた人。 そして——今夜、入口で足止めされた私を助け、場の空気を変え、報道陣まで呼んだ人。 ——全部、タイミングが良すぎる。 しかも、真琴は、会場で私が何を欲しているかを、先回りして言葉にしていた。 この人は、私のことを、最初から知っている。 ——そうとしか、思えない。「真琴さん」「なに?」「もしかして…&hell
会場に押し寄せた報道陣は、あっという間に人だかりを作った。「歌い手Yukiの正体が判明したというのは本当ですか!」「盗作疑惑について、ご本人からコメントを!」 フラッシュが、次々と焚かれる。 目を開けていられないほどの光の中で、私は、立ち尽くしていた。 ——誰がこんなに早く呼んだの。 配信を見ていた誰かが情報を流したのか、会場のスタッフが動いたのか。いずれにしても、状況はすでに、私の手を離れて動き出していた。 前世では、こんな光景はなかった。 あの夜、会場の外にいた私に、カメラを向ける人間なんて、一人もいなかった。 ——今、フラッシュを浴びているのが、私の方だなんて。 不思議な感覚だった。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。「な、なんで、こんな——」 桜は、青ざめた顔で後ずさりしていた。 報道陣のカメラが、次々と彼女に向けられる。「盗作は事実ですか?」「ご自身が歌い手だと名乗られた根拠は?」「養父母との関係についてもコメントを!」 矢継ぎ早の質問に、桜は、まともに答えることもできない。 唇が震えて、言葉が、出てこない。 ——あの桜が。 いつも、完璧に涙と微笑みを使い分けて、どんな場面も切り抜けてきた桜が、今、言葉を失っている。 胸の奥が、ずきりと痛んだ。 勝ったはずなのに、スカッとした気持ちには、ならなかった。 ——これは、桜が自分で選んだ結果。 分かっている。 けれど、小さい頃、一緒に笑った記憶が、ほんの少しだけ、蘇ってしまう。「桜! 待ちなさい!」 養母が、慌てて桜の腕を掴む。「違うんです、これは誤解で——」 養父が、記者たちに向かって弁明を始めていた
「たまたま調子が良かっただけです! 私だって、本気を出せば——」 桜は、なおも周囲に訴えかけるように声を張り上げていた。 けれど、さっきまでとは違う。 その声には、もう、会場を支配する力がなかった。 ——それでも、まだ諦めないんだ。 分かっていた。桜は、追い詰められたときほど、強い。 前世から、何度も見てきた。逃げ道がなくなった瞬間、あの子は涙を武器に変える。「皆さん、分かってください……」 桜の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。「有希お姉ちゃんは、昔から私に嫉妬して、こういう嫌がらせを繰り返してきたんです。曲だって、お姉ちゃんが私の部屋から勝手に持ち出して、自分のものにしたんです……」 ——そう来たか。 思わず、息を呑む。 盗んだ側が、盗まれた側を「盗人」に仕立て上げる。前世の私も、まさにその構図で潰された。「うっ……ひどい……私、ずっと我慢してきたのに……」 養母が駆け寄って、桜の肩を抱く。「かわいそうに、桜……! 有希、あなたって子は、どこまで妹を傷つければ気が済むの!」 養父まで、苦々しい顔で頷いている。 ——やっぱり、この三人は、揃って同じ舞台に立つんだ。 会場の空気が、再び、わずかに揺らいだ。「そうよね、かわいそうに……」「妹をここまで追い詰めるなんて」「でも、さっきの演奏は本物だったぞ」「いや、演奏と盗作は別の話じゃない?」 賛否が入り乱れて、ざわめきが広がっていく。 配信のコメント欄も、同じだった。【桜ちゃん泣いてる……かわいそう】
十五分後。 スクリーンのカウントダウンが、ゼロを示した。 会場の照明が、ピアノの周りだけを残して、ふっと落ちる。 先にピアノの前に座ったのは、桜だった。「……それでは、演奏させていただきます」 さっきまで青ざめていた顔に、いつの間にか、完璧な微笑みが戻っている。 ——立て直しが早い。さすが。 この十五分、桜は一度も私の方を見なかった。ただ黙って紙を見つめ、ときどき指先を動かしていた。 あの子なりに、必死だったのだろう。 その必死さを思うと、胸の奥が、ちくりと痛む。 けれど——その痛みを、私は丁寧に押し込めた。 桜の指が鍵盤に触れた瞬間、会場の空気が変わった。 渡されたモチーフを、柔らかく、優雅に膨らませていく旋律。華やかな装飾音。計算された強弱。 認めたくないけれど、それは確かに「美しい演奏」だった。 技術は一級品。人を惹きつける見せ方も、前世から変わらず、桜は誰よりも上手い。 ——悔しいくらい、綺麗。 聴き入ってしまう自分に気づいて、唇を噛んだ。 桜は、人に「どう聴かれるか」を、本能的に知っている。どの瞬間に手を止めれば、観客が息を呑むか。どこで音を溜めれば、涙が出るか。 それは、才能と呼んで差し支えないものだった。 ただ——と、私は思う。 その旋律は、どこまでも「正解」をなぞっていた。誰もが美しいと感じる形を、丁寧に、丁寧に、組み上げていく。 そこに、桜自身の叫びは、なかった。 演奏が終わった瞬間、会場から大きな拍手が沸き起こった。「素敵……」「やっぱり、さすがね」「これが本物の才能だよ」 配信のコメント欄も、一気に桜への称賛で埋まっていく。【桜ちゃんすごい…&hel
進行役の声に、会場全体の視線が一斉に集まる。「東堂凜様は本日、体調のご都合によりご欠席されておりますが——代理として、橘真琴様よりお言葉を預かっております」 ——真琴が? 驚いて視線を向けると、いつの間にか会場の隅に立っていた真琴が、こちらに向かって軽く手を上げた。「はいはい、僕からね」 真琴はマイクを受け取ると、いつもの人懐っこい笑顔のまま、けれどどこか鋭さを含んだ声で続けた。「東堂凜は、口先だけの才能に興味はない。だけど、本物の実力には、誰よりも敏感な人でね」 会場が、静まり返る。 私は、無意識のうちに、手のひらを握りしめていた。 ——東堂凜が、ここで動く。 前世では、この晩餐会で、東堂凜が誰かを名指しすることなんてなかった。桜が「歌い手Yuki」を名乗り、拍手を浴びて、それで終わりだった。 ——流れが、変わってる。 それは、私が前世と違う行動を取ったから。けれど、その変化が、いい方向に転がるのか、悪い方向に転がるのか、この時点では、まだ分からない。 胸の奥で、期待と不安が、ごちゃ混ぜになって渦を巻いていた。「なので——ここにいるお二人に、その場で実力を証明していただきたい、とのことです」 真琴は、私と桜を交互に見た。「即興で、編曲と演奏をしていただきます。お題は、その場でお渡しします」 ——なるほど。口だけの言い分は、もう聞かないってことね。 桜の顔が、目に見えて青ざめた。「そ、そんな急に言われても——」「実力があるなら、問題ないですよね?」 真琴が、にっこりと笑いながら切り返す。 ——うわ、この人、笑顔のまま人を追い詰めるタイプだ。 桜は歯を食いしばりながらも、後には引けない状況に追い込まれていた。
「そ、そんなの……何かの間違いよ!」 桜が、震える声を絞り出す。「有希お姉ちゃんが、私を陥れようとしてるだけ! データなんて、いくらでも捏造できるじゃない!」 ——出た、いつもの被害者ムーブ。 その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何か冷たいものがすとんと落ち着いた。 ——分かってた。この子は、絶対にこう来る。 前世でも、何度も見てきた光景だった。都合が悪くなると、事実そのものを「相手の陰謀」にすり替える。そして、それを信じ込ませるだけの愛らしさと涙を、桜は誰よりも持っている。 ——けど、今日は、それが通用しない場所にいる。 配信のコメント欄は、真っ二つに割れていた。【日付、明らかに古いのばっかりだけど】【いや捏造でしょ。桜ちゃんを陥れたいだけ】【さっきの演奏と同じ旋律、確かにあったよな】【桜ちゃんを信じる。あんなに優しそうなのに】【どっちが本当なんだよ】 一つ一つのコメントが流れていくのを見ながら、私は不思議な感覚に包まれていた。 ——前世では、疑ってくれる声なんて、一つもなかった。 世間は、常に強い方、目立つ方、可哀想に見える方の味方をする。前世の私は、その構図の中で、いつも「加害者」の役割を押しつけられてきた。 ——それが今、少しずつ、揺らぎ始めている。 けれど、揺らいだだけで、まだ覆ってはいない。 会場のざわめきが、「疑惑」の色を帯びていく。 そんな中、悲鳴のような声が響いた。「桜! 何があったの!?」 血相を変えて駆けつけてきたのは、養母だった。その後ろには、苦々しい顔をした養父の姿もある。 ——ここで来るんだ、この人たち。 二人の顔を見た瞬間、胸の奥に、じわりと重たいものが広がった。 &md